Riemannian Surface NEC系の機械でないとフォントが化けてしまうようですが、今の所多少とも数学の記号を使うとなればやむを得ないようです。HTML言語も進化して、TeXのdviファイルを使えるとか、数学記号をせめてMacの数学ワープロぐらいは表現できるようになってほしいものだ。
 やむを得ないので、Mac等他の機械で見ている人のために、対応表を書いておく。
 ε(属する)、(和集合)、(共通集合)、±(プラス・マイナス)、
 (平方根)、(和)、∞(無限大)、≧(以上)
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リーマン面(数学セミナー1993年1月号26-27ページ)


 リーマン面の発見前と発見後で何が変わったかと考えるとき、まだ歴史が我々に近いせいでか、整形美容の手術前、手術後のような劇的なものには思えない。
 本質的な概念の変化・進化は唐突には起こらない。 本質的であればあるほど概念の変化が受け入れられるには時間がかかる。 旧い感覚に囚われている大勢のエスタブリッシュメントを納得させるのは簡単なことではないのである。
 リーマンは1851年の学位論文で複素関数論の基礎付けを行ったが、それが現代数学の開幕のベルを鳴らすことになると思っていただろうか。 ニュートン力学は常微分方程式で記述され実関数だけでも理論の整合性は保たれるが、 19世紀も半ばを過ぎると、電磁波、流体の運動、膜の振動、熱の伝播など偏微分方程式で制御される現象は複素関数で表わすほうが便利なことも分かってきて、複素関数の微積分法の整備は時代の自然な要求であった。
 実関数の時は逆関数や陰関数が一般には“一価”の関数にならなくても仕方がないし、実数には順序があるから(一点の近傍を取り除くと残りは連結でない)、適当に区間を区切ればその上に幾つかの関数を考えることにすれば取り敢えずの理解はされる。 しかし、複素関数の場合は解析接続によって(一点の近傍を取り除いても連結のままであるから)、実関数の時は別々の関数の集まりとしか考えられないものが繋がってしまうことがある。 繋がって一つのものだと考えることにすれば、関数はもはや“一価”ではなく、“多価”になってしまう。
 関数とは解析的な表示を持つものと思われていた当時、解析的表示つまり(無限)級数そのものが関数であったと言える。 しかし、そう思っている限り必然的に多価になった関数を理解することは難しい。
 カントールの集合論の出現前であるが、本質的に現代的な関数の定義をリーマンは与えている。 集合論の言葉を使えば、 f:X --> Y が集合 X から Y への関数であるとは、 X の任意の要素 xεX に対して Y の要素 f(x)εY が一意的に定まるときにいう。
 この定義に適合するよう、関数が一価であり、かつ級数で書かれたものと理解しようとすれば何かを諦めなければならない。 関数を表わす級数を局所的なものとだけ見ることにし、級数を載せている領域と共に考え、その一体となった領域とその上の級数の総体を改めて数学的実体と見るのである。 実体として意味があるための条件として、異なる領域の上の級数も、たまたま領域が交わるときにはその共通部分では一致するとするのである。 これがリーマン面である。
 リーマン自身の言葉を『アーベル関数論』から引用しよう。
「(x,y)平面の上に拡げられた無限に薄い物体を考える。 これは関数が与えられている場に丁度それだけ拡げておく。 関数が接続延長されるときは、この面も更に広く拡げられる。 関数の接続が二つ、あるいはそれ以上生ずるような平面の部分においては、この面は二重又それ以上に重なるだろう。 そこでこの面はそれぞれが関数の分岐に対応するような二重また多重の葉から成っている。 関数の分岐点の周りではこの面の一つの葉は他の葉に接続され、この点の近傍ではあたかも(x,y)平面に垂直な軸と無限小のピッチを持つ螺旋面のように見える...」
“量の上に幾重にも広がる量..."、何と魅惑的な言葉だろう。 しかし、これがその言葉通りの意味で数学的に定式化されるためには位相幾何的基礎付けも必要だった。 1913年に出版されたH.ワイルの著「リーマン面の概念」ではじめて、1次元複素多様体としてのリーマン面の概念が確立したのである。
 リーマン面 X は図形としては複素平面C の部分集合 Vαの集まったものと見るのだが、そのままCの部分だと思うならどんなに集めてもCより大きくはなれない。 VαCの部分集合でありながらまたそう思ってはいけないという矛盾を解決するために、X 自身は X=αUα と, ある集合Uα 達の集まりだが、そのUα は Vα と同じものだと考えるのである。 つまり、同相写像 φα : Uα--> Vα で同一視される。 実は Vα は開円板だと思っても構わない。
  図形としての X の複雑さや曲がり方などは Uαの繋がり具合によって表わし、 その上の数学的構造、例えば関数が正則だとか、代数的だとか、座標変換はどれくらい許されるのかとか、許される座標変換に関して不変などんな構造があるかとかいった問題は Vαの方に担わさせるのである。 座標近傍 φα : Uα--> Vα の情報が Uαと交わる Uβ (Uαβ≠φ) に伝わり、更に Uβに交わる Uγに伝わっていくのである。 しかし Uαβは Vα の中でも Vβ の中でも表現されている訳で、その情報の相互の有り方は gβαβ・φα-1| Uαβ で結び付いているが、この gβαが Vα達が担う構造のあり方によって規制されるわけである。
  複素多様体と言う場合、Cの部分集合φα(Uαβ)(Vαの部分集合)とφβ(Uαβ)(Vβの部分集合)とを結ぶこの写像 gβαは関数として表わされ、更に正則であるという条件を置くのである。
  多価関数の一意化の問題は、ある C の部分集合 V 上に与えられた正則関数 f を拡張して、 X = αUαと φα : Uα--> Vα を適当にとり、各 Vα 上に関数 fα を与え、それが共通部分で一致する、つまり fβ・ gβα = fα を満たすようにするという問題になるのである。
  また C の代わりに微積分などの数学的操作を許すような空間として、 RnCn などのアフィン空間も取れて、それぞれ実または複素 n 次元多様体という。
  関数の一意化を保証するために導入されたリーマン面だが,リーマンが掘り起こした多様体という構想力は殆どあらゆる数学的世界に拡がっていく。
  例えば座標近傍の上に与えられた長さの概念が多様体 X 全体に矛盾なく定義できるとき X をリーマン多様体と言うが、この概念は1854年のゲッチンゲン大学教授就任講演でリーマンにより提案された。 講演題目を指定したガウスの期待をはるかに越えて、これ以降ボヤイ、ロバチェフスキー、ガウス等が激しい心の葛藤の末に創りだした非ユークリッド幾何学はリーマン多様体の例に過ぎなくなってしまった。 ユークリッド幾何を特徴付けていた合同変換は、リーマン幾何(リーマン多様体上の幾何学)では等長変換(長さを変えない変換)に変わる。 平行線も特別な光輝を放たなくなり、直線それ自身がまっすぐであるということの反省もされることになる。 この考え方がアインシュタインの相対性理論への道を拓いていく。
  各座標近傍で微積分が出来てもそれが多様体全体で整合性のあるものになるかどうか分からないが、陰関数の定理がうまく機能するときには、曲がった空間である多様体の上で微積分を展開することが出来る。
  リーマン以前にも曲がった図形の上の微積分がなかったわけではない。 曲線や曲面上に束縛された点の運動や、エネルギー保存法則などの保存法則に対応した高次元の“曲面”の上に運動方程式を制限することもあった。 しかし、大きな空間の微積分をその“曲面”に制限するという形をとることになり、何を独立変数と見るべきかなどの細かい議論が必要であった。
  多様体の考え方に立てば、必要な変数は座標近傍を与えたときに、動的かつ内的に定まることになる。
  例えば平面 R2x,y の単位円 x2 + y2 = 1 上で微積分を考えたいとき、本質的な変数は一つだけだが、場所によっては y=±(1-x^2) や x=±(1-y^2) のように、独立変数を x か y に取り替える必要がある。 勿論多様体の概念を使っても、上のような場合分けが要らなくなるわけではないのだが、場合分け全体を一つの数学的概念として捉えられることが良いのである。
  また複素の平面 C2x,yで(本当はCの代わりに無限遠点を付け加えたもので)、 y2 = x3 + a x + b は図形としてはトーラス(ドーナツの表面)を表わしているが、代数的には楕円曲線と呼ばれ、a, b が違えば代数的な構造が異なっている。
  単位円のとき座標 x,y を x=cosθ, y=sinθ と三角関数を使えば全ての場所で共通に一つの変数 θ で表現されたように、楕円曲線の座標 x,y もワイエルシュトラスの P 関数 P(z) によって一つの複素変数 z で表わすことが出来る。 代数と幾何と特別な関数達が結び付くことで、複素代数幾何は多彩な花の咲き乱れる花園の美しさを持つようになっていく。
 リーマン面で代表されるリーマンの業績には、才能や力強さというより彼の魂が篭められているように感じられる。

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 久しぶりに頼まれた原稿だったことと、「それで何が変わったか」というしゃれた特集ものだったのでかなり気負って書き始めたのです。 雑誌見開き2ページの分量という制限はいかにも辛かったが、数カ月気分を練ってから、一気に書き始めたのが次の文章だった。

第1原稿

 リーマン面の発見前と発見後で何が変わったかと考えるとき、まだ歴史が我々に近いせいでか、整形美容の手術前、手術後のような劇的なものには思えない。
 本質的な概念の変化・進化は唐突には起こらない。 本質的であればあるほど概念の変化が受け入れられるには時間がかかる。 旧い感覚に囚われている大勢のエスタブリッシュメントを納得させるのは簡単なことではない。
 リーマンが1854年にゲッチンゲン大学の教授就任講演でガウスを驚嘆させたとき、勿論リーマン面という言葉は使われていないし、今日の術語としてのリーマン面そのものだけが対象でもなかった。
 非ユークリッド幾何を発見しながら世間の反応を恐れて有名な彼の抽斗の中に仕舞っていたガウスは、リーマンが提案した壮大な幾何学の有り様に天のまばゆい光を感じたのか、勇気ある後継者を得て安心したのか、その後暫くして世を去っている。
 ボヤイやロバチェフスキーや、そしてガウス自身の発見したユークリッド幾何以外の幾何学の可能性は、リーマンのこの講演によって、一挙に拡大してしまった。 リーマンの描く無数の幾何学の中のほんの特殊なものになってしまった非ユークリッド幾何学から、長い間人々の心を囚えていた後ろめたさや影のようなのものが消えてしまった。 リーマンはもっと先に進んでいるのだ。 健康にすぐれず39才で病死したリーマンには周りへの思惑でためらう時間がなかったのかも知れない。
 それでも多少は“同時代の人々にあまりにも異様な観念を強いたくないと考えたらしく”、と1913年にH.ワイルが『リーマン面の概念』の序文で言うように、アイデアの本質はぼやかしてその技術的なことを強調する表現になっていた。
 リーマンの仕事の流れは実に自然で、何かの行き詰まりを打開したとか、劇的に見方を変えるために提出されたもののようには見えないし、その深さを理解されるのに時間が掛かったものもある。 しかし、現代的と呼ばれる数学のほとんどの分野に、リーマンの思想が脈打っているのである。
 高校数学の予備知識でその思想を伝えることは難しいが、易しく述べられるものから始めてみよう。
 いつのころか数の概念が獲得されてから、自然数、正の有理数、負の数、小数と数概念が拡張されてきて、厳密性の象徴のような実数概念が成立する以前に、代数方程式の解を表現するために導入された複素数が、電磁波や膜の振動のような現象を記述するのに便利であることが知られるようになっていた。
 複素数を変数とし複素数を値に持つ関数(複素関数と呼ぶ)の研究が必要になった。 実変数の実数値関数(実関数と呼ぶ)ではあまり意識されなかった問題が、複素関数の意味を確定しようとする作業から、生まれてきた。
  関数の現代的な定義を思い出すことにしよう。 f: X --> Y が集合 X から Y への写像であるとは、 X の任意の要素 x ε X に対して Y の要素 f(x) ε Y が一意的に定まるときに言い、特に Y が数の集合であるとき関数という。
 しかし集合論以前の時代にこのような関数の定義はなく、知られている関数の総体としての概念があっただけである。 単項式 axn の有限級数としての多項式 anxn+...+ a1x+a0 や無限級数が関数であった。 特別の無限級数が、何等かの事情で知られていた三角関数 sinx, cosx, tanx や指数関数 ax や対数関数 logx などの特別の関数を表わしている。
 級数は収束さえすればある値を与え、関数を与えることになるが、問題にしている関数の全体を表せないことがある。 例えば、 sinx は n=0(-1)n+1 x2n+1/(2n+1)! という展開を持ち、どんな x でも収束する。 しかし、この展開からは想像もつかないが sinx は周期関数 (sin(x+2π)=sinx) で、同じ値を無限回繰り返しとっている。 それゆえ逆関数を考えようとすれば、無限に多くの値を持つことになってしまう。 逆関数は関数理論上重要な概念で、三角関数のような重要な関数の逆関数が関数でないというのは辛い話である。 勿論値を [0,2π) とか (-π,π] に制限すればよいのだが、不自然な感じは否めない。
  三角関数は難しい関数だからというかも知れないが、それなら例えば y=x2 という関数の逆関数はどうだろう。 x が実数なら y も実数で非負になる。 逆関数の定義域は y≧0 で x=±冨、つまり値が二つになってしまう。
  また y=x3-x の逆関数 x=x(y) を考えるとき、 |y|> 2/(33) では値が一つで問題はないが、 |y|< 2/(33) のときは値が三つもある。 “関数" x=x(y) のグラフを見よう。 y は (-∞, ∞) を動ける。 -∞ の方から y を段々大きくしていくとき、最初は一価で微分も出来るほど滑らかだが、 -2/(33) で突然、とんでもなく離れたところに値が生まれる。 そして y が大きくなると、生まれた値は二つに別れ全部で三つになる。 このまま終わるかと思えば、別れた値の一方が元々の値の変化してきたものと 2/(33) でぶつかって“ジューッ”、消えてしまう。 箱 [-2/(33), 2/(33)]×[-2/3, 2/3] に飛び込んできた粒子が、励起されて飛び出して行き、後には何も残らないといったイメージを描くのはこじつけに過ぎるかも知れない。
 しかしこれはもう何とかしないといけない。 何とかしないといけないが、変数 x, y が実数である限り幾つかの関数を同時に表しているとしか解釈の使用がない。 そこで困ったときの一般化で、変数 x, y を複素数にすることを考える。 しかし複素数にしたところで多価のものが一価になる訳ではない。
  それどころか実関数の時には単調性の典型のような指数関数 ex の逆関数である対数関数 logx も、もはや一価ではない。 複素数だから変数を z=x+-1y と書こう。 すると ez=ex+-1y=ex (cosy+-1siny) となり、三角関数が現れて、虚軸方向には周期的になる。
  この周期性ははっきりしているので、逆関数 logz を、値域を制限してやることで関数と思えはするが、無限に異なる値域を要求することは無限に異なる関数を考えることでもある。
  複素数に移って却って話が複雑になったようにみえる。
  もう一度級数に戻って考えよう。 n≧0anzn の形の級数は整級数と呼ばれ、収束円と呼ばれる原点を中心とするある円の内部で収束し、その円の外部では発散することが分かっている。
  関数 logz は z=0 では値を持たないので、z=1 の周りで展開すると、 -log(1-z)=n=1zn/n となり、右辺の級数は z=1 で発散し、収束円は |z|<1 となる。 そこでこの円内の点 z0 の周りで級数を展開し直すと、つまり、 w=z-z0 という変数に移れば、 n=1 (w+z0)n/n となり、収束円の半径は |z0-1| で中心は(変数 z で見れば)z0 である。 z0 が実数≧0 でなければこの円は前の円 |z|<1 からはみ出す。 はみ出したところに新しく点 z1 を取って、その点の周りに展開し直せばその収束円は以前の円からはみ出すこともある。
  これを次々とやっていけば収束円の鎖が平面を埋め尽くしていくが、 埋められない点も残って、z=n (nεZ>0) では値は定まらない。 しかし、例えば収束円の鎖が z=1 の周りを回ってきて、 z=0 に戻ってきたとき同じ値になるとは限らない。 回り方によって値が違うのである。
  どの円の上での級数も、元の円 |z|<1 の上での級数 n=1zn/n と同等である。 どちらが優れているということはない。どの円の上の級数からも全体が再現されるし、

  ここまで書いてきて、枚数が超過しそうなことに気づいた。まだ話は始まったばかりだ。大分前から、話の転換のフレーズだけは決まっていた。
ここにリーマンが登場するのだ。
 このままではリーマンの登場する時間が(紙数)がなくなる。ここまでの3倍ほどないと納まりが付かない。また、締め括りのフレーズも気に入ったのが見つけてあった。
ニュートンやオイラーやガウスの業績に触れるとき彼らの大きな能力と力強さに驚嘆するが、リーマンの仕事にはむしろ彼の魂を感じるという人が少なくないだろう。
 これは是非使いたい。となれば、全面改訂しかない。ゆったり書きたいものだと思いながら、涙をのんでこの原稿を没にした。

第2原稿

 リーマン面の発見前と発見後で何が変わったかと考えるとき、まだ歴史が我々に近いせいでか、整形美容の手術前、手術後のような劇的なものには思えない。
 本質的な概念の変化・進化は唐突には起こらない。 本質的であればあるほど概念の変化が受け入れられるには時間がかかる。 旧い感覚に囚われている大勢のエスタブリッシュメントを納得させるのは簡単なことではない。
 リーマンは1851年の学位論文で複素関数論の基礎付けを行ったが、それが現代数学の開幕のベルを鳴らすことになると思っていただろうか。 ニュートン力学は常微分方程式で記述され実関数だけでも理論の整合性は保たれるが、 19世紀も半ばを過ぎると、電磁波、流体の運動、膜の振動、熱の伝播など偏微分方程式で制御される現象は複素関数で表わすほうが便利な場合があり、 複素関数の微積分法の整備は時代の自然な要求であった。
  実関数の時は逆関数や陰関数が一般には“一価”の関数にならなくても仕方がないし、実数には順序があるから(一点の近傍を取り除くと残りは連結でない)、適当に区間を区切ればその上に幾つかの関数を考えることにすれば取り敢えずの理解はされる。 しかし、複素関数の場合は解析接続によって(一点の近傍を取り除いても連結のままであるから)、実関数の時は別々の関数の集まりとしか考えられないものが繋がって仕舞うことがある。 繋がって一つのものだと思うとすれば、関数はもはや“一価”ではなく、“多価”になってしまう。
  関数とは解析的な表示を持つものと思われていた当時、解析的表示つまり(無限)級数そのものが関数であったと言える。 そう思っている限り必然的に多価になった関数を理解することは難しい。
  カントールの集合論の出現前であるが、本質的には現代的な関数の定義をリーマンは与えている。 集合論の言葉を使えば、 f:X-->Y が集合 X から Y への写像であるとは、 X の任意の要素 xεX に対して Y の要素 f(x)εY が一意的に定まるときに言い、特に Y が数の集合であるとき関数という。
  この定義に適合するように、関数が一価のもので、かつ級数で書かれたものと理解しようとすれば何かを諦めなければならない。 関数を表わす級数を絶対的なものと見ず、局所的なものとだけ見ることにするのである。その代わり級数を、それを載せる領域と共に考え、その一体となった領域とその上の級数の総体を改めて数学的実体と見るのである。 一体であることを保証する条件として、異なる領域の上の級数も、たまたま領域が交わるときにはその共通部分では一致することにするのである。 これがリーマン面である。
 「アーベル関数論」からリーマンの言葉を引用しよう。
『 (x,y) 平面の上に拡げられた無限に薄い物体を考える。 これは関数が与えられている場に丁度それだけ拡げておく。 関数が接続延長されるときは、この面も更に広く拡げられる。 関数の接続が二つ、あるいはそれ以上生ずるような平面の部分においては、この面は二重又それ以上に重なるだろう。 そこでこの面はそれぞれが関数の分岐に対応するような二重また多重の葉から成っている。 関数の分岐点の周りではこの面の一つの葉は他の葉に接続され、この点の近傍ではあたかも (x,y) 平面に垂直な軸と無限小のピッチを持つ螺旋面のように見える...』
 “量の上に幾重にも広がる量...”、何と魅惑的な言葉だろう。 しかし、これがその言葉通りの意味で数学的に定式化されるためにはブラウワーなどの位相幾何的な仕事を経て、1913年に出版されたH.ワイルの著「リーマン面の概念」まで待たねばならなかった。 そこで1次元複素多様体としてのリーマン面の概念が確立した。
  リーマン面 X は図形としては複素平面 C の部分集合 Vαの集まったものと見るのだが、そのまま C の部分だと思うならどんなに集めても C より大きくはなれない。 VαC の部分集合でありながらそう思ってはいけないという矛盾を解決するために、 X 自身は X=αUα とある集合 Uα 達の集まりだが、その Uα は Vα と同じものだと考えるのである。 そして、同じということを表現するのに φα : U_α-->V_α という同相写像が与えられていることにする。 同相というのは位相空間として同じという意味であり、位相空間とは集合に“近さ”の概念を開集合族という部分集合族を指定することによって与えたもののことである。 数直線 R の開集合が開区間の和として表されるものであるように、複素平面 C の開集合は開円板(円の内部)の和として表されるものである。
 上の Vα は更に連結な(切り離されていないということ)開集合であるとしておくのだが、すべて開円板だと思っていても構わない。 φα が同相だというのだから、 X には Uα を開集合とする位相が入っていることになる。
 図形としての X の複雑さや曲がり方などは Uα の繋がり具合によって表わし、 その上の数学的構造、例えば関数が正則だとか、代数的だとか、座標変換はどれくらい許されるのかとか、許される座標変換に関して不変などんな構造があるかとかいった問題は Vαの方に担わさせるのである。 座標近傍 φα:Uα--> Vα の情報が Uαと交わる Uβ (Uαβ≠φ) に伝わり、更に Uβに交わる Uγに伝わっていくのである。 しかし Uαβは Vα の中でも Vβ の中でも表現されている訳で、その情報の相互の有り方は gβαβ・φα-1| Uαβ で結び付いているが、この gβαが Vα達が担う構造のあり方によって規制されるわけである。
 複素多様体と言う場合、Cの部分集合φα(Uαβ)(Vαの部分集合)とφβ(Uαβ)(Vβの部分集合)とを結ぶこの写像 gβαは関数として表わされ、更に正則であるという条件を置くのである。
 多価関数の一意化という観点から言えば、ある C の部分集合 V 上に正則関数 f が与えられたときそれを拡張して、 X = αUαと φα : Uα--> Vα を適当にとり、各 Vα 上に fα という関数を与え、それが共通部分で一致する、つまり fβ・ gβα = fα を満たすように出来るかという問題になるのである。
 また C の代わりに微積分や代数的操作を多く許すような空間として、RnCn などのアフィン空間を取ることもでき、それぞれ実または複素 n 次元多様体という。
  関数の一意化を保証するために導入されたリーマン面だが,リーマンが掘り起こした多様体という構想力は殆どあらゆる数学的世界に拡がっていく。
  例えば座標近傍の上に与えられた長さの概念が多様体 X 全体に矛盾なく定義できるとき X をリーマン多様体と言うが、この概念は1854年のゲッチンゲン大学教授就任講演でリーマンにより提案された。 講演題目を指定したガウスの期待をはるかに越えて、これによりボヤイ、ロバチェフスキー、ガウス等が激しい心の葛藤の末に創りだした非ユークリッド幾何学はリーマン多様体の例に過ぎなくなってしまった。 ユークリッド幾何を特徴付けていた合同変換は、リーマン幾何(リーマン多様体上の幾何学)では等長変換(長さを変えない変換)に変わる。 平行線も特別な光輝を放たなくなり、曲線それ自身がまっすぐであるということの反省もされることになる。 この考え方がアインシュタインの相対性理論への道を拓いていく。
 非ユークリッド幾何学から、長い間人々の心を囚えていた後ろめたさや影のようなのものが消えてしまった。 リーマンはもっと先に進んでいるのだ。 健康にすぐれず39才で病死したリーマンには周りへの思惑でためらう時間がなかったのかも知れない。
 各座標近傍で微積分が出来ても、それが多様体全体で整合性のあるものになるかどうか分からないが、多変数関数の陰関数の定理がうまく機能するようなときは、曲がった空間である多様体の上で微積分を展開することが出来る。
 リーマン以前にも曲がった図形の上の微積分がなかったわけではない。 曲線や曲面上に束縛された点の運動や、相空間の中でエネルギー保存法則などの保存法則に対応した高次元の“曲面”の上に運動方程式を制限することもあった。 しかし、大きな空間の微積分をその“曲面”に制限するという形をとることになり、何を独立変数と見るべきかなどの細かい議論が必要であった。
 多様体の考え方に立てば、必要な変数は座標近傍を与えたときに、動的かつ内的に定まっていることになる。
 例えば平面 R2x,y の単位円 x2 + y2 = 1 上で微積分を考えたいとき、本質的な変数は一つだけだが、場所によっては y=(1-x2)だったりまた x=-(1-y2) だったりして、独立変数を x や y に取り替える必要がある。 勿論多様体の概念を使ったからといって、上のような場合分けが要らなくなるわけではないのだが、場合分け全体を一つの数学的概念として捉えることが出来るのが良いのである。
 また複素の平面 C2x,y で(本当は C ではなく無限遠点を付け加えたもので)、 y2= x3+ ax+ b は図形としてはトーラス(ドーナツの表面)を表わしているが、代数的には楕円曲線と呼ばれ、 a,b が違えば代数的な構造が異なっている。
 単位円のとき座標 x,y を x=cosθ, y=sinθ と三角関数を使えば全ての場所で共通に一つの変数 θ で表現されたように、楕円曲線の座標 x,y もワイエルシュトラスの P 関数 P(z) と呼ばれるものを使って表わすことが出来る。 代数と幾何と特別な関数達が結び付くことで、複素代数幾何は多彩な花の咲き乱れる花園の美しさを持つようになっていく。
  ニュートンやオイラーやガウスの業績に触れるときその大きな能力と力強さに驚嘆させられるが、リーマンの仕事を前にするときはむしろ彼の魂を感じるような気がする。
 これでもまだ少し紙数を超えている。一段落位のことだった。なんとかこのまま載せてほしかったが、許して貰えず泣く泣くあっちこっちを削った。気に入っていた締めのフレーズも短くした。校正も編集に任せてしまった。何せ、書き直しで締め切りを過ぎていたのだ。
 刷り上がりを見て、さすがにきちんと校正してあると思いながら、最後まで読んできて、愕然とした。
リーマン面で代表されるリーマンの業績には、才能や力強さという彼の魂が篭められているように感じられる。
違いが分かるだろうか。原稿はこのページも挙げてあるように、
リーマン面で代表されるリーマンの業績には、才能や力強さというより彼の魂が篭められているように感じられる。
だったのだ。2文字落ちている。「より」という2文字。
 たった2文字で、壊れ物のように繊細なとリーマンの魂を形容した文章が、びくともしない強靱な精神の持ち主としてリーマンを讃えたことになっている。
 自分で校正がしたかった。と、痛切に思った。しかし、依頼原稿を書くときは、プロとして振る舞うべきだったのだ。締切りを守れば良かったのだ。 2度と締切りを押すことはするまいと思った。
 それから今日まで、原稿の依頼はない。

 上のコメントを書いてから2年半以上のときが流れ,ハイラー・ワナー『解析教程』を訳すようになってから,数度数学セミナーにも原稿を依頼された.上の原稿を書いたときは,まだ,雑誌原稿というものの性格がわからなかったこともあって,編集者にも迷惑を掛けていたのだなあ,と思う. 数学セミナーというのは,というか日本評論社の数学部門には数人の編集者がいるのだが,それぞれが非常に独立性の高い仕事の仕方をしている. それで,この原稿の担当者と仕事をする機会が,最近になって始めて起きた.僕としては,上のページをアップしたことで,一応のけじめがついていたのでさっぱりしたものであったが,担当者の方はひどく気にしておられるということを別の編集者から聞いた.
 それで,この箇所を削除しようと思って,ファイルを見たのだが,消してしまうのは惜しい気がする. 非常に気の優しい方で,数学の世界のこともよくわかっておられ,個人的には,好意以外のものを持ってはいない.
実は今最終原稿読み直しても,誤植が見つかったので直したのだが,それほどに,原稿には意図せぬ誤りが入り込むものである. 編集者への悪意のために消さないのではなく,自戒をこめて,置くのである.心優しいYさんには,もう少し逞しくなってもらうことにして,容赦していただきたいと思う.